蓮虹の心の日記

なぜ様々な道徳教育を受けるのにいじめや差別がなくならないのか

私たちは子供の頃から

それは幼稚園の頃から、人をいじめてはいけません

と教わり

小学生になれば、ありとあらゆる

差別の内容を学び

そして差別をしてはいけないこと、いけない理由を

皆感想として発表します。

私から見たら皆それでとても満足気にしているのでとても不思議でした。

感想自慢のように、良い感想は張り出されたりしているのですが

当時の私はこの文章に心がないなとか

ただの文字が並んで知るだけで、本当に理解してないんだなと

子供ながらにそんな感想を読んで思っていました。

なぜなら道徳でとても感想をほめられている人が

いじめをしているからです

人には本能的に攻撃性が備わっているのか

子供の頃から弱いものいじめをしてはいけないと習います

その裏には人間には本能的に攻撃性が備わっているのかなと

感じたりもしていました

自分より弱い人を見ると幼稚園の子でも意地悪をしてしまう。

それは誰から教えられたものでもなく、自然に行われているからです

それは本能に備わっているのではないかと感じていることがあります

そして、いけませんと言われて禁止されると余計に増長してしまうのではないかと感じるからです

道徳は本当に役に立っているのか

これは蓮虹の個人的な意見です

道徳の授業ではいろいろな人の気持ちになって

〇〇さんの気持ちを考えてそのようなことを言わないべきです

とかそのような人を見つけたら注意しますとか

発言する人に限って、

いじめの主犯をしていることが多いからです。

そして道徳で得た

差別の内容を休み時間に

こんなものあるんだってきもー

あいつもそうなんじゃない?

といじめている人のことをバカにするネタに使っているからです。

差別をしないような意図で学ぶはずが

全く知らなかった差別を題材に新たないじめを生み出しているからです。

いじめを受けて感じたこと

蓮虹は小学校1年の入学したその日からいじめがはじましました。

私は出席番号2番でしたが、1番の子が一目見て私を気に入らなかったようで、

叩く、ける、つねるといういじめを始めました。

話したこもない人から突然危害を加えられる日々に困惑したことは今でも覚えています

ですがその子は、学年でトップの成績の子だったので

先生も周りの子も、いじめOKのような感じでした

勉強もできないし、親も特に権力がない。だからいじめられても仕方ないよねという先生の容認がありました。そして先生が容認すると、学校は先生の考えが模範になるので、

生徒もいじめは容認しても良いものなんだと、たくさんの傍観者を作ってしまいます。

いじめられる子にとっては道徳教育が励みになりそして、絶望にもなる

いじめられている子にとって道徳の時間というのは、ある意味希望の時間になります。

それはいじめている子がそのいじめに対して何か気づいて、悪いと感じてやめてくれる

また、周りのこも悪いことだと認識して止めてくれる

そうなることを期待してしまう授業です。

そして授業中はとてもいいことも言うのです

そしてやっと気づいてくれたのか。と嬉しく思うのですが

日常は全く変わらず、逆に悪いと分かっていても

そうし続けているのかと余計に自分がダメな人間だと言われているように

感じてしまい、絶望を感じるのです

いじめをなくすことは難しいでもなぜいじめが起こるのかもう少し考えることも必要ではないか

正直なところ、いじめをなくすことは難しいと感じています

私自身いじめにあいましたし、いじめられていることを庇ったことで

標的にもありました。

そしてほぼ8割の人が傍観者であるからです。

見て見ぬふり。日本にはいじめだけでなくいろいろなことで、自分が関わりたくないから、

めんどくさい事に巻き込まれたくないからと

見て見ぬふりが普通です。

そして容認しても良いという、生きた学びを暗黙の了解でしていますので

それが正しいとさえとも感じているのです

だからいじめられたら、いじめられている人だけでなく、ほぼ全ての人が自分を攻撃している人と同じになるのです。

ですが、なぜいじめが起こるのかと言うことを

考えることは今まで一度もなかったと思います

差別はダメだ。そうじゃなくなぜ差別をする行動を取るのか。

そこを考えることで、道徳がまるでひと事ではなく自分ごととして意味のあるものになったのではないかと感じたりしています。

まとめ

今日は昔から自分の中でとても心がモヤモヤしていたことを書いてみました。

昔からいじめはダメだ。差別はダメだ

そう教育を受けてなお、差別もいじめもなくならない現状

どんなに道徳教育をしても授業数を増やしても

それをネタにいじめが加速することを見てきました。

誰かをいじめて、自分の価値を見出すこと

誰かをいじめることで自分の存在意義を確認していること

とても多いです。

それはやはり自分を認めることができなかったり、自分に隠れている攻撃性をコントロールできないのが原因ではないかとも感じます。

勉強ができれば、そのような攻撃性は容認される

勉強やスポーツができなければ、発達障害と言われる

このような社会の見えざる差別や仕組みや、一人一人の心を

どうにかして、自分の周りからでも心をほぐすことができればと

現在試行錯誤をしています。

いじめをなくすには、今までの考え方や風習

そして何よりいじめている人の心をケアしないといけないという

課題があるのではないのかと感じています